スポーツのように勉強(4) 〜 親の「勉強しろ」は末代まで祟る2016年05月28日 20:00

スポーツのように勉強(4) 〜 親の「勉強しろ」は末代まで祟る

このシリーズを書くとき、僕には、主体的に取り組んだ勉強だけが身につくという信念があります。今回言いたいことは、「家庭で本人の自主性・主体性を損なうことをしてはいけない」。しかもそれは後々まで悪影響を及ぼす。

「勉強しなさい」「宿題はやったの」「いつまでもマンガを読んでんじゃない」

つい言ってしまいますよね。でも、ぐっとこらえて、本人が自発的に取り組むのを待ちましょう。マンガやスマホをやってて結局そのまま寝てしまった、やっぱり親が言ってやらせないとダメだ、ということもきっとあると思います。でも、我慢しましょう。なぜなら、親が言ってやらせた「勉強」は形だけのもので、結局ダメだからです。絶対に身につかない。どうせ同じダメなら、「勉強しなかったからダメだった」と因果が明確に分かる状態にしておくのがよい。

子どものころ、親に言われて渋々やった形だけの勉強はタチが悪い。なぜなら、結局は身についてないから、仮に目先の定期試験はそこそこ通過しても、頭に定着しない。後で応用や展開ができない。ああ、そういうこと勉強したのに忘れちゃったなー、あんなに勉強しても身につかなかった、という関連付けをしてしまう。

私に言わせれば、理由は単純。勉強しなかったから身につかなかった、それだけです。勉強したつもりになってたかもしれないが、勉強になってなかったのです。親を安心させることが目的の勉強はやめましょう。親の方は、「勉強しろ」と言って、子供が真の勉強をする機会を奪うことはやめましょう。

スポーツのように勉強(3) 〜 謙虚な解説書を選ぼう2016年02月21日 13:00

第3回は、入門書は、専門外の人が書いたものもよいという話。

 「入門書」とか、「わかりやすい解説」とかうたっておきながら、全然分かりやすくないということが往々にしてある。その道の権威が書いた解説書が、想定している読者の目線に全く立っていないケースだ。内容を既によく知っている人にしか理解不能だったりする。家電やPCの取扱説明書についてもよく言われる。

 では、素人が書いたら何でもいいのかということでは、もちろん、ない。勉強に役立つためには、少なくとも科学的方法論がしっかりしている必要がある。そういう観点からは、ある分野で一流とされる人が「私はこの分野の専門ではないが」と謙遜しながら書いたものが、推論の進め方、(合理的という意味で)正しい疑問の持ち方を学ぶのによいと感じた。

 専門家が書くと「正しいことを教えてやる、よく読め」というスタイルになることがある。一方、専門外の人は「一緒に考えよう」というスタイルになる。そこは、一流の人ほど謙虚な姿勢になるようにも見える。「自分も答えを断定できるほどの知識、最新の知見は持ってないので、よく知られていることを元に一緒に始めよう」という感じ。わざとらしくなく。例えば、プロ野球で内野手登録の人が「外野は専門じゃないので」と言って謙遜しても、普通の人に比べればはるかに高いレベルで外野の守備もできるのと同じようなことだ。「技術がない」「知識がない」と言われて、そうかぁと自分の土俵で納得してはいけない。

 最近の本では、リチャード・ドーキンスによる「ドーキンス博士が教える「世界の秘密」」がよい解説書だった。「利己的遺伝子」で世界的に有名になった生物学者だ。内容はやはり得意の生物進化の話から始まるが、その後は物質の究極、世界(宇宙)の成り立ち、天変地異、身の回りの出来事にまつわる心理学まで、網羅的ではないが、科学的アプローチがさまざまな分野の安全な探検の仕方を知るのに役立つと理解するのには十分だ。私はこの本を新聞の書評で知り、図書館で借りて一通り読み、ああ、これは娘の学習にいいなと考え、購入した。ハリーポッターの映画のキャラクターデザインを手がけた人(デイヴ・マッキーン)による画も印象深い。

 平易な文章と、印象的な画や写真で読者を引き込むのは科学雑誌Newtonと同じやり方だ。私はNewtonを"プレ創刊号"の0号から購読し、20年以上は読んでいた。当時中学に入ったばかりの小僧のリクエストに対して、特に問い質すことなく定期購読をしてくれた両親に感謝したい。当時私は、少なくとも最初の数年間は、毎号、一ページ目から最後の編集後記まで、すべてのページのすべての文章を読み、図を見た。全部を理解したわけではもちろんなかったが、一応、両親も無駄だったとは思ってないだろう。感覚的には、母が作ってくれた食事をごはん一粒残さず食べる、食べないと落ち着かないというのに近かった。

 実は、今回のテーマを考えるにあたってはNewtonと、Newton初代編集長の故竹内均氏も念頭にあった。しかし、執筆者が専門外だからむしろいいのではという印象を強く付けられたのはドーキンス氏の最近の一冊だった。実際、Newtonは専門家のオンパレード。それが実に親しみやすい中身になっていたのは、竹内編集長の人選の方針や手腕によるものなのだろう。竹内氏自身も解説文がとても上手であった。専門の地球物理に関する特集記事だけでなく、毎号の、世界各地の紀行文も氏が執筆されていた。後に、一冊の中で徐々に読み飛ばす記事が増えてきたころでも、紀行文の記事は楽しみで必ず読んでいた。内容は、氏ならではの自然地理、地学的な解説を楽しめるのはもちろん、人文や社会の記述もたっぷり。私はここで世界史の理解を深めたと言ってもよい。文系理系の知識が自然と融合して地政学的な知識にまで醸成されていった。今は、国際関係のニュースや論評を理解する基礎として役立っている。

 さて、ドーキンス博士の「世界の秘密」。10数個のテーマからなり、基本構成は、まず神話から始まり、そして解説。通じて、読者に問いかけ一緒に考えていくという形式で進む。科学の本ではあるが、世界史 --- 古代文明に関心があるとより楽しいだろう。広い知識がないと読めない、と考える必要はない。入り口がたくさんあると考えるのがいいだろう。私も最初は読み飛ばしたところは多い。

 科学を学ぼうというときに、神話を「非科学的」とバカにしてはいけない。科学的ではなくとも合理的な話はあるのだ。身の回りの出来事、自分で見たこと、他人から聞いたことから、「なぜだろう」「次はどうなるのだろう」と疑問を立てていき、与えられた材料の中でもっともらしい説明をつけていく。「科学的」の定義をうるさく言わなければ、古代の人も科学的センスはあったと言ってしまいそうだ。

 当然、伝承しやすい部分だけが残っていき、荒唐無稽な話になってしまっているものが多いと思う。ただ、話のもとになった事象、事件、疑問は何かあったはずだ。真に何もないところから、完全に独立したストーリーを作るというのは難しい。ばかばかしい話だとしても、何か疑問を解決しようとしたんだ、伝えようとしたんだという先人達の思いは尊重したい。

 「世界の秘密」では、神話のパートを軽くすぎると、「では本当のところはどうなのだろうか」と、いわゆる解説が始まる。"What is XXXX really?" 科学的に正しい疑問の持ち方を示し、実験や観察に基づく解説は、やさしい口調で流れていく。特徴的な挿絵は、それを見ること自体も面白いのだが、一ページの中の文章をぐっと減らす効果もある。これ大事。

 科学で何でも「本当の」ことが分かってしまうと世の中面白くない、と考える人もいるだろう。ドーキンス氏は語っている。印象的だったのでここは文章をそのまま引用する。「私たちは科学を武器に、少なくとも賢明で有意義な疑問を投げかけ、信頼できる答えが見つかったときには、そうだと認識できる。むやみに怪しげな物語を考え出す必要はない。私たちは真の科学的調査と発見に喜びや興奮を感じるので、空想の飛躍を抑えられる。結局、そちらのほうが空想よりわくわくする。」(地球外生命について語った章)

 そう、楽しいのだ。感動の引き出しが増えると言ってもよい。鳥や草花について詳しい人は、そうでない人に比べて、公園を散歩するときのわくわく感が違うように。ドーキンス氏は、虹の話を、例によって神話の紹介から入り、分光器の発明の重要性を述べ、次の章で宇宙の始まり(ビッグバン理論)の話につなげていった。氏はこう結んでいる。「だからよけいに虹は美しい。」



 子供に与える本を選ぶとき、どんな人が書いているのかは気になるところだ。あまり極端な思想の著書は警戒した方がいいだろう。ドーキンス氏は徹底した無神論者、ダーウィニズムの信奉者として知られる。欧米のキリスト教文化圏では危険視されかねない人物だ。ただ、とりあえず科学に限って言えば、科学的方法論に基づいて謎を究明していく姿勢が重要なのであって、徹底的に考え、議論し抜いた結果、どうしても説明がつかない部分を神の領域とするかどうかは、極めて個人的な領域に属する。

 科学史の巨人、ニュートンもアインシュタインも敬虔なキリスト教徒だった。ケンブリッジ大学でそのニュートンの後任(ルーカス教授職)でもあるホーキングは著書「ホーキング、宇宙を語る」で、神は最初に宇宙創成のスイッチを押したかもしれないが、少なくともその後はなるように任せているように見える、という意味のことを書いている。「宇宙を語る」では、虚時間の導入でうまく創世の瞬間を説明できそうだということで、神は宇宙の創成どころか初期条件選択ですら自らの意志を反映していないかもしれないと、さらに踏み込んだ問いかけをしている。ただ、そういう問いかけをしたり、説明しようとしたりすることは、科学的方法論に従っている限り、神の存在を否定も肯定もしない。

 要するに無神論者だろうが何だろうが、科学を学ぶにはどうでもいいことだ。敢えて言えば、原理主義者はよくない。科学の本質、反証可能性を否定するからだ。ここで注意すべきは科学絶対主義も一種の原理主義であるということ。「科学的だ」という言い方で一つの説を押し付け異論を許さない、考えないやり方は、科学に完全に逆行する。いわゆる"理系"の人は気をつけよう。歴史観なく、現在の知識だけで何かを語ろうとするときに陥りがちなところだ。この話題も長々と書きたいところだが、ここでは、最近注目のサイエンスライター、竹内薫氏の著書「99.9%は仮説」のタイトルだけ覚えておいてくれればよい。スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での演説の言葉「ドグマにとらわれてはいけない」だけでもよい。

スポーツのように勉強(2) 〜 自分がもっとも厳しい採点者であれ2016年02月05日 18:00

 初回で挙げた見出し候補のうち、
  自分がもっとも厳しい採点者であれ
について書こう。自分の勉強で意識し出したのは高校の頃だったが、それまでを振り返っても、割と前から自己採点は厳しくしていたと思う。子供にも、「勉強」というものを始めたころから言い聞かせていることの一つだ。

 一人で勉強しているのなら、多少ごまかしても誰も見ていないのだから・・・「できたことにしちゃおう」という誘惑はある。ここでは逆である。誰も見ていないのだから「赤」だらけでも全然恥ずかしくもないじゃないか、と考える。(誰も見てない? 自分が見てるじゃないか)

 一応、緩めるところも用意していて、ステージクリアのような基準は適度に妥協する。自己採点を厳しくすれば「90点とれたら合格、次に進む」のような条件はクリアのハードルが当然上がる。課題全体としていついつまでにここまでやらねばならない、というスケジュールの制約がある場合などは、「自分に厳しく」がただの自己満足になって、本末転倒なことになりかねないこともあろう。適当なところで妥協するのだが、その考え方はケースバイケースで、私の中ではまだ整理できていない。たぶん、「計算ミスのために正解は少ないが、この章のポイントである溶解度の計算については理解した」とみなせたら「完了」でよい、というように判断していたと思う。ここでは、「次に進むための足場は築けたと納得できたら」というにとどめる。

 具体例を書こう。
 分かりやすいのは漢字の書き取りだろう。トメやハネといった細部を意識し、自分で答え合わせをするときに、「厳しい採点者だったら×にするだろうな」というものは、容赦なく×をつける。自分としてはちゃんとハネたつもりでも、鉛筆が薄くなっていてハネてないように見える可能性があれば×。もちろん、採点者によっては認めてくれることもあるだろう。ただ、そうじゃないこともあるだろう。そんなとき、「oo先生はマルだった」とか「私は前からこの書き方でやっていた」と憤るのも無駄な努力。入試だったら×になってることすら気付かない。ペーパーテスト一発勝負という、かなり客観的な選考に望むのならば、採点者の裁量による部分、運に左右される部分はなるべく減らそう。

 記述式で回答する問題では、国語に限らず、「漢字の書き間違いは減点」という言い伝えをよく聞く。これも、答え合わせで間違いを見つけてしまったときは素直に減点。

 英語のスペルも厳しく見る。書く速さ(というか格好良さ)から、私は普段から筆記体を使っていたが、やりがちなのは、rとv、nとuの区別や、iやj, t などの点や横棒の書き忘れ。m, n, u の連なりも要注意点。私の場合、running, swimming, communication といった単語が、最初は筆記体で滑らかに書けず、何度も練習した。running については、なぜか母から、筆記体の練習にいいと勧められた。running が書けたら筆記体は大丈夫と。

 社会での人名、地名等では完璧を期す。漢字や固有名詞では「これは自分の頭になかなか定着しないな」という固有の問題、あるいはパターンが浮き上がることがある。それは、単に×して正解を書くだけでなく、何度も繰り返し書いて、身体的な矯正を試みた。"矯正"は言い過ぎとしても、自分はここで嵌りやすいという注意の意識を定着させる効果はあった。今でも覚えている例としては、「暇」と「睦」の日ヘンと目ヘン。意味を考えれば分かるだろと言われるが、なぜか頭に定着しなかった。今でも、手書きのときは必ずこの文字で止まる。あっ、この字は俺は苦手だぞ、気をつけろ、と心の中で声がかかる。

 数学では、「解答欄に書く内容は間違えたが考え方は合っていた」というようなケースでも泣く泣く×。ただ、自虐が目的ではないので、記述式の場合は「ここまでは合ってる」といった、「認めてあげる」コメントを入れることもある。実際問題として、後で見直す可能性がある問題ならば、自分がどういうところで間違えたかという分析にも役に立つ。
 自分の受験の歴史で言えば、私はケアレスミス、特に計算ミスが多かった。数学や理科の試験ではいつもどこかでミスって、1割くらいは損していたような気がする。そんな中、「京都大学の数学の採点では、解答欄外の走り書きなども細かくチェックして、受験者の考えをしっかり追ってくれる。場合によっては、計算結果が全然違ってもかなりの部分点がつくこともあるらしい」という噂を聞いて、おー、俺のためのような採点方針だ、いい大学だーと、勝手に京大に惚れ込んでいた。

 だいぶ余談が増えてきたので締めに入る。

 今考えると、厳しい自己採点とは、出題者・採点者の気持ちになって考える習慣付けになっていた、そういう効果もあった気がする。私は、試験というのは出題者・試験者と受験者のコミュニケーションだと思っている。決して、外食で出された料理を黙って食べるような一方通行のものではない。出題者の意図を正しく汲んでいたか、自分の表現は分かりやすいか、誤字や汚字で見苦しいものを見せていないか、「よい問題」というのはあるなぁ、出題者に感動(あるいは文句)を伝えたい、等々。そう書いておきながら、このブログがみなさんにとって読みづらいものになっていたらすみません。出題者とのコミュニケーションについては、稿を改めて紹介したいと思う。

スポーツのように勉強(1)2016年01月30日 18:00

苦労ではなく工夫だったのかな。

本ブログでは、いわゆる勉強法について、よりよいと私が思うことを書きます。今考えている内容は、だいたい以下のような項目です。自分の経験を振り返って、また、娘の受験を通して感じたことが中心です。
本ブログを書こうと思ったきっかけ、目的などはおいおい公開していきます。これを考えていると筆が進まないので。

■ 道は自分で見つけよう
■ 勉強はスポーツ 〜 脳の"体調"を知ろう
■ 自分が最も厳しい採点者であれ
■ 試験のための勉強ではなく、勉強のために試験がある
■ 専門外の一流が書いた解説書はよい
■ 親の「勉強しろ」は末代まで祟る
■ 脳内発酵 〜 数学は石油のように、社会科はうどんのように
■ 勉強に役立った漫画 〜 ドラえもんから暗殺教室へ
■ 学校で学ぶのはすべて歴史だ
■ 国語 + 数学 -> 英語
■ 小学生は英語の前に国語
■ 読み聞かせがよかった
■ 仮説立案・検証のサイクルは幼児でも快感 〜 話を聞いてあげよう
■ 辞書は、検索には電子辞書、勉強には紙
■ 勉強の小道具
■ 問題集の回答は見てよい
■ 中学受験の意義に気付いた
■ 高学歴は何を証明しているか