スポーツのように勉強(2) 〜 自分がもっとも厳しい採点者であれ ― 2016年02月05日 18:00
初回で挙げた見出し候補のうち、
自分がもっとも厳しい採点者であれ
について書こう。自分の勉強で意識し出したのは高校の頃だったが、それまでを振り返っても、割と前から自己採点は厳しくしていたと思う。子供にも、「勉強」というものを始めたころから言い聞かせていることの一つだ。
一人で勉強しているのなら、多少ごまかしても誰も見ていないのだから・・・「できたことにしちゃおう」という誘惑はある。ここでは逆である。誰も見ていないのだから「赤」だらけでも全然恥ずかしくもないじゃないか、と考える。(誰も見てない? 自分が見てるじゃないか)
一応、緩めるところも用意していて、ステージクリアのような基準は適度に妥協する。自己採点を厳しくすれば「90点とれたら合格、次に進む」のような条件はクリアのハードルが当然上がる。課題全体としていついつまでにここまでやらねばならない、というスケジュールの制約がある場合などは、「自分に厳しく」がただの自己満足になって、本末転倒なことになりかねないこともあろう。適当なところで妥協するのだが、その考え方はケースバイケースで、私の中ではまだ整理できていない。たぶん、「計算ミスのために正解は少ないが、この章のポイントである溶解度の計算については理解した」とみなせたら「完了」でよい、というように判断していたと思う。ここでは、「次に進むための足場は築けたと納得できたら」というにとどめる。
具体例を書こう。
分かりやすいのは漢字の書き取りだろう。トメやハネといった細部を意識し、自分で答え合わせをするときに、「厳しい採点者だったら×にするだろうな」というものは、容赦なく×をつける。自分としてはちゃんとハネたつもりでも、鉛筆が薄くなっていてハネてないように見える可能性があれば×。もちろん、採点者によっては認めてくれることもあるだろう。ただ、そうじゃないこともあるだろう。そんなとき、「oo先生はマルだった」とか「私は前からこの書き方でやっていた」と憤るのも無駄な努力。入試だったら×になってることすら気付かない。ペーパーテスト一発勝負という、かなり客観的な選考に望むのならば、採点者の裁量による部分、運に左右される部分はなるべく減らそう。
記述式で回答する問題では、国語に限らず、「漢字の書き間違いは減点」という言い伝えをよく聞く。これも、答え合わせで間違いを見つけてしまったときは素直に減点。
英語のスペルも厳しく見る。書く速さ(というか格好良さ)から、私は普段から筆記体を使っていたが、やりがちなのは、rとv、nとuの区別や、iやj, t などの点や横棒の書き忘れ。m, n, u の連なりも要注意点。私の場合、running, swimming, communication といった単語が、最初は筆記体で滑らかに書けず、何度も練習した。running については、なぜか母から、筆記体の練習にいいと勧められた。running が書けたら筆記体は大丈夫と。
社会での人名、地名等では完璧を期す。漢字や固有名詞では「これは自分の頭になかなか定着しないな」という固有の問題、あるいはパターンが浮き上がることがある。それは、単に×して正解を書くだけでなく、何度も繰り返し書いて、身体的な矯正を試みた。"矯正"は言い過ぎとしても、自分はここで嵌りやすいという注意の意識を定着させる効果はあった。今でも覚えている例としては、「暇」と「睦」の日ヘンと目ヘン。意味を考えれば分かるだろと言われるが、なぜか頭に定着しなかった。今でも、手書きのときは必ずこの文字で止まる。あっ、この字は俺は苦手だぞ、気をつけろ、と心の中で声がかかる。
数学では、「解答欄に書く内容は間違えたが考え方は合っていた」というようなケースでも泣く泣く×。ただ、自虐が目的ではないので、記述式の場合は「ここまでは合ってる」といった、「認めてあげる」コメントを入れることもある。実際問題として、後で見直す可能性がある問題ならば、自分がどういうところで間違えたかという分析にも役に立つ。
自分の受験の歴史で言えば、私はケアレスミス、特に計算ミスが多かった。数学や理科の試験ではいつもどこかでミスって、1割くらいは損していたような気がする。そんな中、「京都大学の数学の採点では、解答欄外の走り書きなども細かくチェックして、受験者の考えをしっかり追ってくれる。場合によっては、計算結果が全然違ってもかなりの部分点がつくこともあるらしい」という噂を聞いて、おー、俺のためのような採点方針だ、いい大学だーと、勝手に京大に惚れ込んでいた。
だいぶ余談が増えてきたので締めに入る。
今考えると、厳しい自己採点とは、出題者・採点者の気持ちになって考える習慣付けになっていた、そういう効果もあった気がする。私は、試験というのは出題者・試験者と受験者のコミュニケーションだと思っている。決して、外食で出された料理を黙って食べるような一方通行のものではない。出題者の意図を正しく汲んでいたか、自分の表現は分かりやすいか、誤字や汚字で見苦しいものを見せていないか、「よい問題」というのはあるなぁ、出題者に感動(あるいは文句)を伝えたい、等々。そう書いておきながら、このブログがみなさんにとって読みづらいものになっていたらすみません。出題者とのコミュニケーションについては、稿を改めて紹介したいと思う。
自分がもっとも厳しい採点者であれ
について書こう。自分の勉強で意識し出したのは高校の頃だったが、それまでを振り返っても、割と前から自己採点は厳しくしていたと思う。子供にも、「勉強」というものを始めたころから言い聞かせていることの一つだ。
一人で勉強しているのなら、多少ごまかしても誰も見ていないのだから・・・「できたことにしちゃおう」という誘惑はある。ここでは逆である。誰も見ていないのだから「赤」だらけでも全然恥ずかしくもないじゃないか、と考える。(誰も見てない? 自分が見てるじゃないか)
一応、緩めるところも用意していて、ステージクリアのような基準は適度に妥協する。自己採点を厳しくすれば「90点とれたら合格、次に進む」のような条件はクリアのハードルが当然上がる。課題全体としていついつまでにここまでやらねばならない、というスケジュールの制約がある場合などは、「自分に厳しく」がただの自己満足になって、本末転倒なことになりかねないこともあろう。適当なところで妥協するのだが、その考え方はケースバイケースで、私の中ではまだ整理できていない。たぶん、「計算ミスのために正解は少ないが、この章のポイントである溶解度の計算については理解した」とみなせたら「完了」でよい、というように判断していたと思う。ここでは、「次に進むための足場は築けたと納得できたら」というにとどめる。
具体例を書こう。
分かりやすいのは漢字の書き取りだろう。トメやハネといった細部を意識し、自分で答え合わせをするときに、「厳しい採点者だったら×にするだろうな」というものは、容赦なく×をつける。自分としてはちゃんとハネたつもりでも、鉛筆が薄くなっていてハネてないように見える可能性があれば×。もちろん、採点者によっては認めてくれることもあるだろう。ただ、そうじゃないこともあるだろう。そんなとき、「oo先生はマルだった」とか「私は前からこの書き方でやっていた」と憤るのも無駄な努力。入試だったら×になってることすら気付かない。ペーパーテスト一発勝負という、かなり客観的な選考に望むのならば、採点者の裁量による部分、運に左右される部分はなるべく減らそう。
記述式で回答する問題では、国語に限らず、「漢字の書き間違いは減点」という言い伝えをよく聞く。これも、答え合わせで間違いを見つけてしまったときは素直に減点。
英語のスペルも厳しく見る。書く速さ(というか格好良さ)から、私は普段から筆記体を使っていたが、やりがちなのは、rとv、nとuの区別や、iやj, t などの点や横棒の書き忘れ。m, n, u の連なりも要注意点。私の場合、running, swimming, communication といった単語が、最初は筆記体で滑らかに書けず、何度も練習した。running については、なぜか母から、筆記体の練習にいいと勧められた。running が書けたら筆記体は大丈夫と。
社会での人名、地名等では完璧を期す。漢字や固有名詞では「これは自分の頭になかなか定着しないな」という固有の問題、あるいはパターンが浮き上がることがある。それは、単に×して正解を書くだけでなく、何度も繰り返し書いて、身体的な矯正を試みた。"矯正"は言い過ぎとしても、自分はここで嵌りやすいという注意の意識を定着させる効果はあった。今でも覚えている例としては、「暇」と「睦」の日ヘンと目ヘン。意味を考えれば分かるだろと言われるが、なぜか頭に定着しなかった。今でも、手書きのときは必ずこの文字で止まる。あっ、この字は俺は苦手だぞ、気をつけろ、と心の中で声がかかる。
数学では、「解答欄に書く内容は間違えたが考え方は合っていた」というようなケースでも泣く泣く×。ただ、自虐が目的ではないので、記述式の場合は「ここまでは合ってる」といった、「認めてあげる」コメントを入れることもある。実際問題として、後で見直す可能性がある問題ならば、自分がどういうところで間違えたかという分析にも役に立つ。
自分の受験の歴史で言えば、私はケアレスミス、特に計算ミスが多かった。数学や理科の試験ではいつもどこかでミスって、1割くらいは損していたような気がする。そんな中、「京都大学の数学の採点では、解答欄外の走り書きなども細かくチェックして、受験者の考えをしっかり追ってくれる。場合によっては、計算結果が全然違ってもかなりの部分点がつくこともあるらしい」という噂を聞いて、おー、俺のためのような採点方針だ、いい大学だーと、勝手に京大に惚れ込んでいた。
だいぶ余談が増えてきたので締めに入る。
今考えると、厳しい自己採点とは、出題者・採点者の気持ちになって考える習慣付けになっていた、そういう効果もあった気がする。私は、試験というのは出題者・試験者と受験者のコミュニケーションだと思っている。決して、外食で出された料理を黙って食べるような一方通行のものではない。出題者の意図を正しく汲んでいたか、自分の表現は分かりやすいか、誤字や汚字で見苦しいものを見せていないか、「よい問題」というのはあるなぁ、出題者に感動(あるいは文句)を伝えたい、等々。そう書いておきながら、このブログがみなさんにとって読みづらいものになっていたらすみません。出題者とのコミュニケーションについては、稿を改めて紹介したいと思う。
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